武蔵国足立郡笹目領松本新田の歴史


松本三丁目地内白髭神社
平成十六年正月撮影

このページでは浦和郷土文化会等の資料等を参考にしながら
松本一丁目の歴史を見つめ直して行きたいと思います。

編集局長の性格上、私感がかなり盛り込まれてしまうことお許し下さい。
(編集局長)




第一稿

其之一

序文


 松本一丁目のある「さいたま市南区松本地区」は、元々「松本新田」と呼ばれていました。

 松本新田は、江戸時代の寛文年間(1661〜1672)頃に武蔵国笹目領(佐々目郷)に開墾されたものと言われています。

 ただし、鎌倉の鶴岡八幡宮の「鶴岡事書日記」には、佐々目郷の人たちが鶴岡八幡宮に反抗していた様子や、応永五年(1398)九月十四日「佐々目郷白髭免田」の年貢徴収に関する記載や同年十月二十九日「白髭社の神田」に関する記載があります。

 佐々目郷とは、氷川神社のある内谷を中心として隣接する曲本、美女木、沼影、下笹目、後の松本新田を含む現在のさいたま市南区および戸田市の西部の一部のことを指しています。

 この日記に出てくる「白髭社」は現在松本三丁目地区内にある「白髭神社」であると言われており、これらのことから、この地域の歴史も室町時代以前に遡るようです。

 松本新田からは、江戸時代に入ると富士講を改め、日常的道徳実践を説く不二道とした鳩ヶ谷出身の「小谷三志」の直弟子であった人達、明治から昭和かけて、三木露風や西条八十などの活動に参加し民謡詩人と言われるが多くの可能性を秘めながら若くして亡くなった人物や、日本のニールと呼ばれる人物が輩出されています。

 平成以降の近年に入居してきた私たちにとって、特に名所旧跡やお祭りの無いこの松本地区は、荒川土手沿いの辺境の地域として何も文化遺産のないつまらない地域と思われていたことは事実です。

 しかし、文献を読みあさるにつれ、この地域を見直さなければならない事実がたくさんあることに気づきました。

 自然交配による変種の多いさくら草の野に遊び、蛇行を繰り返し数年おきに人々を苦しませながら田畑に豊穣を約束した荒川とつきあい、白髭=新羅などの外国文化、技術を受け入れ、たくましく生きる百姓として自信と誇りを持って権力に反抗し、日本の芸術や教育思想に多大な影響を与えた心熱き先達たちがいたことを誇りに思い、また忘れ去られたこのことを後世にしっかりと伝えるため、この稿を始めたいと思います。

 この稿は、松本新田の歴史だけでなく、佐々目郷(笹目、篠目領)の歴史、浦和、戸田の歴史や荒川の治水、流路の変遷、荒川彩湖の自然など関連した多くのことに関わらなければならないものと思われます。

 今後、郷土史家の諸先輩方を始め、各方面の協力をいただきこの稿を進めて参りたいと思います。 

 素人の書くコメント解釈については、一笑に付していただくほかありませんが、色々とお叱りをも頂戴したいと思います。

                        よろしくお願い申し上げます。
平成16年正月 
編集局長こと鈴木義仁


其之弐

白髭神社の
震災記念碑

白髭神社境内震災記念碑碑文

以下の碑文は、大正十三年(震災の翌年)
震災により被害を受けた白髭神社社殿復旧
の記念碑に刻まれているものです。


世界未曾有ノ震災ハ時大正十二年紀元二千五百八十三年九月一日午前

十一時五十八分関東一體ノ地ヲ震動シ瞬間ニ大厦高楼橋架軌道悉ク破

壊サレ死傷者数十萬屍累々トシ交通絶ヒ物凄キニ悲憤ノ涙潤ルゝノ

外ナク餘震度々起リ屋内危険にして露榮ス其ノ有様ハ筆舌ニ盡シ難ク

灰塵セル家屋ヨリ猛火四散シ帝都の盛観モ哀シ三日ノ火炎ニ舐メ盡サ

レ荒涼タル一大焦土ト化シ百萬の被災民ハ焔ニ追ハレ食ニ饉ヒ住居無

キ裡ニス逞鮮人襲来ノ流言蜚語ニ奮起シ遂ニ自警團ヲ組織シ殘焼地域

ノ維持ニ努メシガ戒厳令行ハレ軍隊ノ出働ト共ニ其ノ秩序ハ忽チ恢復

ス畏クモ 摂政宮殿下ニハ深ク御宸襟悩シ給ヒ御内帑金御下賜被為有

當美谷本邑ニ於テモ被害夥シク倒壊住家七十二戸内大字松本新田十四

戸ニシテ其ノ他建物ノ崩斜セルモノ全村ニ互ル此時鎮守白髭神社ノ社

殿倒潰シタルモ発起者及当字一同其他有志ノ力ニ依リ茲ニ復旧成ル所

 以ナリ矣

大正十三年十月二十三日 建之 應需 菅原善正 謹書


文字については筆者の漢字知識が貧弱なため
読みとれないものもありました。
また、コンピューターでは出ない文字もありました。
ご了承下さい。

 
 関東大震災により白髭神社も被害を受け、その復旧を記念する碑文でありますが、震災の凄まじさを伝え、美谷本村の被害、松本新田の被害を伝えると共に、摂政殿下のご配慮に感謝し、軍隊の心強さを讃えています。

 しかし、そのうらで流言飛語により秩序は混乱し、自警団と称して在日外国人に対し私刑を加えるなどの暴挙が発生していた事実をも伝えており、後世に二度とこのような過ちの無いよう戒める碑文であると感じる・・・のは筆者だけでしょうか。


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掲載日 平成十六年一月十日


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